さよなら国立競技場 2

国立競技場に初めて行ったのは、たぶん中1の時。『ペレサヨナラゲームインジャパン』だったと思います。ペレがニューヨークコスモスという当時アメリカにあったプロリーグの選手として来日。ベッケンバウアーも所属していたかもしれません。日本代表との引退興行だったと思います。

サッカーなんて町内のどこにも存在していなかったのですが、僕の中学に当時のサッカーどころ埼玉県から越境で入学してきたヤツがいて、その同級生が僕に最初の手ほどきをしたのです。初の国立も彼に連れて行ってもらいました。「アメリカのサッカーリーグなんてのは邪道で、本場は南米とヨーロッパ。」「ペレもベッケンバウアーも、もうピークは過ぎた選手。」なんて…。
バイエルンミュンヘンブンデスリーガアディダス、ダイヤモンドサッカー、ワールドカップ、クライフ、オランダ代表、ブラジル代表、サッカーマガジン高校サッカー浦和南静岡学園‥。それまで耳にすらしたことがないワードが次々に飛び込んできました。そうやってズブズブと深ーくて広ーい世界につかっていったわけです。

国立競技場ではその後釜本の引退試合や、マラドーナの世界デビュー、度肝を抜かれたワールドユース決勝、オフトジャパンのTM、バティステュータ擁するアルゼンチン戦。同じくW杯予選、対UAE戦。奇跡的に抽選に当たったJリーグ開幕戦と、まあそう自慢できる回数ではありませんが、その他にも代表の親善試合とか、ちょこちょこと行ってました。
そして、何と言っても天皇杯決勝。
今だに家族ぐるみでつきあいのある僕の中学時代の恩師が、教員組合のつてで天皇杯決勝のチケットを手にいれてくれて、今年まで20年以上に渡り、毎年送って頂いていました。
初めての試合は確か Jリーグが始まる前。ちょっと怪しい記憶ですが、日産対読売クラブで、延長で日産が優勝を決めた試合だったと思います。まだ小学校に上がる前の長男を連れて行きました。それからうちの元日の恒例行事になったのですが、その長男が、大学時代から実際にこの大会に出場するようになり、より親近感を覚える大会になりました。

昨年長い教員生活を終えた恩師から「今年が最後かな」と届いた今年の天皇杯決勝は、奇しくも2020年の東京オリンピックに向けて全面的に建て替えることになった現国立競技場で行われる、最後の大会となったのです。何年か前から、このチケットは二人の息子のモノになってしまったのですが、今回ばかりは別。「これは、目にとどめておかないと」と、がっちり着込んで、元日の朝、千駄ヶ谷に向かいました。

これも巡り合わせなんでしょうか、初めて生で見た天皇杯の優勝チームを母体としたクラブが今年の天皇杯を制しました。今季のJリーグで、最後の最後にひっくり返された、サンフレッチェ広島が相手だっただけに、Fマリノスとサポーターの喜びはひとしおだったでしょう。

試合のことに少しだけ触れると、広島は、相手が組み立てに入ると両サイドのMFも引いて5バックとなります。そしてその前に佐藤寿人を除く4人が引いてブロックを作るのですが、対する横浜FMは、FWとMFの後ろ(というか、中澤とドゥトラの間くらい。ほぼ最後尾)に中村俊輔がポジションをとっていました。誰もマークには来ません。相手エリアまで運ぶと、左から斉藤、右から小林が積極的にドリブルでつっかけて行きます。こぼれ球を中町、富澤が回収。相手を押し込んでる状況で、俊輔もスルスルと上がっていき、受けたボールを狭いところにピンポイントでパス。Jの各チームが手を焼いた広島の守備ブロックを破って行きます。 広島は寿人も、寿人へのホットラインもほぼ抑えられ、このゲームはなす術もないといった感じでした。

この日は横浜FMのサポーターの応援も見事でした。これは、20数年前にはなかった風景です。


日産が優勝した時は、確か木村和司さんと水沼貴史さんが、応援席の方に行って万歳していたような記憶があるのですが、まだサポータって言葉は浸透していなかったなあ。まあそんなことから始まって、それこそ、僕が初めてここに訪れた時のことを考えれば、日本のサッカー界はもう信じ難いほどの変化です。「ワールドカップは4年に一度で、その規模はオリンピックより上なの!ワールドカップの上に『サッカーの』なんてつけないの!」なんて例の同級生に教わって、ダイヤモンドサッカーを食い入るように見てた頃の自分に、会いに行って教えてやりたいです。
「おまえがおっさんになる頃には日本にもプロリーグができてて、韓国と共催でワールドカップをやっちゃって、すげえ才能を持った選手が次々にでてくるんだ。そこから飛び立ったやつらが、今見てるそのドイツのリーグなんかで何人も活躍してるんだぜ。」「しかもそこからイングランドマンUに移籍したやつが代表の10番つけてて、左のサイドバックインテルのバリバリのレギュラー。そんでもって、日本のエースは来季からACミランで10番つけるんだぜ!」「そいつらが、ワールドカップで優勝を狙うって真顔で言ってるんだけど、信じるか?」

きっと信じないだろうなあ。
当時、1FCケルン古河電工から移籍して行った奥寺康彦さんのことはもう夢のような話として受け止めていたのですが、専修サッカー部のキャプテン長澤選手は、大学卒業後にケルン入団が決まりました。この話も時代の移り変わりを物語る話題です。

いずれにせよ、この国立競技場で見られる天皇杯も、ここでの僕のサッカー観戦も終わりです。


長い間ありがとうございました。

さよなら国立競技場 1

2013年もたくさんの試合を見た一年でしたが、一番忘れられないのは、神奈川県の天皇杯予選、専修大学対神奈川県教員の一戦です。長男が神奈教で先発濃厚。次男が専修でベンチ入りの可能性あり、ということで、もしかしたら兄弟対決?ということもあったのですが、今季大学サッカー界でも最強とも言われている専修大を相手に、神奈教はどうなっちゃうんだろう?というのが正直な気持ちでした。しかもスケジュールの都合で止むを得ないとは言え、神奈教は酷暑の中の連戦。毎日鍛えている大学生相手に、それぞれ仕事を持っている神奈教の選手達にはちょっと酷な試合でした。

結果は2-1で専修。善戦というより、本当に神奈教はいい試合をしました。小さな観客席一杯のお客さんの前で(フリッパーズのメンバーや清流のサッカー部の選手達も大勢見にきていました)長男も気合の入ったプレーを見せてくれました。次男の出番はなく、兄弟対決とはならなかったのですが、まあなんというか、ホッとしたというのが正直な一戦でした。


試合後に専修の監督さんの所に挨拶に行く兄。「弟をよろしくお願いします。」ピンぼけなのは、わざとではありません。





その後僕は仕事で岩手県にひと月ばかり行っていたのですが、その間に、神奈川代表対青森代表の天皇杯本大会一回戦というのが青森県で予定されており、もし専修が来るようなら青森まで足を伸ばして見にいくか!と思っていたのですが、専修大は県の決勝で桐蔭学園大学に敗戦。いやいや残念でした。青森代表との試合に勝てば、二回戦は横浜Fマリノス戦。ユニバー代表4人、年代別日本代表2人という先発陣を揃えた陣容から言っても、ショートパスをテンポ良くつないで相手を押し込んで行くスタイルで関東大学リーグを圧倒して行ったサッカーの内容から言っても、マリノスとの一戦はあり得るなと思っていた関係者は多かったと思います。調整面とかあるんでしょう。ああいう攻撃に人数を割くやり方というのは、トーナメントを勝ち上がるのは難しいって言うのもあるのかもしれません。ただ、立派だなと思ったのは、ありがちな「守り一辺倒のサッカーに敗れた」といった言い訳を公には聞かなかったことです。これは後の大学選手権準決勝敗退後もそうでした。スタイルを貫いて勝つことを目指しているチームの心意気みたいなものを感じます。

蛇足ですが、次男が入学してからの約9ヶ月は、端で見ていて、息苦しくなるくらいの緊張感の連続でした。それは公式戦の前とかではなく、日々の練習に向かう緊張感です。Aチームはもちろん凄いのですが、Bチームに落ちると、そこにもまたすごい選手がぞろぞろいるという世界。布団の中で「毎日が戦いだ‥」なんてポツリとつぶやいてるのを聞いちゃったこともあります。ここ2、3年の大学サッカーにおける専修の強さを身近で垣間見たような気がしました。

さてさて、残念ながら専修対Fマリノスの一戦はならなかったのですが、全国できっとこんな悲喜こもごもが繰り広げられているであろう天皇杯。元日の決勝に残るのは2チームです。

スタンダードは進化する

久しぶりに関東大学リーグを観戦しました。専修 対 順天堂大学です。

ボールが収まるという表現がありますが、縦に入れたパスを受けて、そこで時間を作れる選手がいると、攻撃の幅はひろがります。専修の攻撃を見ていると、そのことがよくわかります。
先取点は、仲川選手が敵ゴールを背にしてフィールド中央でキープ。近寄って来た長澤選手に落とすと、そこでもう一度ためて右の前のスペースへ。この日は、3バックで、攻撃時は通常より高めのポジションの北爪選手がほぼフリーで受けて、ドリブルで切り込みそのままシュートを決めました。
中で2人が、相手を5人ほど引きつけているわけですから、フリーの選手も生まれるわけです。


攻守が切り替わった時に、決定機が生まれることは、今や常識。そのスピードとクオリティは、チームのレベルに比例しているように思います。センターフォワードへのパスをカットすると、それがそのまま前線へのパスになり、一気にシュートまでというシーンもよくあります。守備時も、奪ったらどうするかと考えながらプレーするわけです。逆に言えば、攻め込んでいる時に奪われた場合の対処の方法は、攻撃とセットで考えておかなければいけないテーマなのかもしれません。奪われた選手が、ダッシュで戻って、カバーリングにまわるということなんか、もはや必須でしょうか?

余談ですが、バイエルン就任前のペップのインタビューで、バルサの監督時代、ドン引きの相手に、ポゼッションしながら、相手にわざとボールを奪わせて、一度前がかりにさせた瞬間に奪い返して、シュートまで持ち込んだという信じ難い話を読んだことがあります。

昔から言われてきた、フィールドを三分割した、アッタキングサードでは「ボールを失うことを恐れずに積極的にしかけよう」みたいな言い方が、かなり呑気に聞こえてきます。物理的なフィールドのサイズは変わっていませんが、観戦者の感覚としては、フットサルやバスケットボールの攻防に近い感じです。フィールドのどこであろうと、ボールを失うことは即ピンチです。

前線の選手にボールを預けた、でも、トラップが少し大きくなって相手に渡ってしまった。ドリブルをしかけた、でも抜けずにボールを奪われた。クロスをあげた、でも、キーパーにキャッチされた‥どのパターンでも、そこから速攻を受けてシュートまで持ち込まれることは、もう普通のことです。


攻撃側の選手が、ペナの中で止まっちゃう。固唾を飲む瞬間です。



シュートなり、ドリブルなりに加えて、相手に寄せられてもボールを簡単に奪われない能力、さらに 奪われた瞬間の切り替えスピードなど、アタッカーのスタンダードは進化しているようです。同様にセンターバックの選手で、パスやドリブルのうまい選手は、いまどきめずらしくありません。
次男が高校生の時(まあついこの間なんですが)、ある試合でセンターバックをやっていました。近くで観戦していた人がふと「なーんだ、今日はディフェンダーですか」とがっかりしたようにつぶやいていました。幾重にもわかってないなと思って、返す言葉もありません。彼は子供達にサッカーの指導をしているんですが‥‥

大丈夫かな?

江ノ島フリッパーズ、出航。

 
開幕戦の当日、グラウンドに着くまで落ち着きませんでした。



試合の前の晩、もしかしたら登録に漏れがあったんじゃないかと、急に不安になってきました。詳細は省きますが、ここまであれこれ手探りでやってた登録の手続きで、ちょっと不安な点が出てきてしまったのです。もし試合に出られない人がでたらどうしよう?と思い始めたのです。
パソコンをのぞいたり、連絡をとりあったり、協会のごちゃごちゃいろいろ書かれてある冊子を見直したりしたんですが、答えは出ません。
「明日、試合前に本部で聞こう」
ということで、寝ることにしました。
選手たちも盛り上がっているのに、ここまできて試合に出られないなんて申し訳ない。そう、責任を感じて落ちこんでいるかみさんに、僕の方が申し訳ない気持ちでした。



まあ、ともかく少し早めにグランドに行ってみようと、午前中に練習試合を観戦した専修大グラウンドから、金沢区の三菱グラウンドへ向かいました。



グラウンドでは、二試合前のゲームの真っ最中でしたが、見回しても本部らしきものは見当たりません。僕は、グラウンドに着いてからの短い時間に、なんとなくですが「ああ、こういうところから始まるんだなあ」と、いろんな意味で感動していました。それこそ、心配事はそっちのけで。




社会人サッカーのことを意識し始めたのは、長男が大学一年の時。馬入で、神奈川県の国体チームのセレクションを観戦した時だったと思います。
社会人リーグの存在ももちろん知っていましたし、高校を卒業してしばらくして、東京の北区リーグみたいなところで、少しプレーしたこともありました。だけど、馬入で目の前でプレーしている選手たちは、そのレベルとは、相当に違います。「あのちょっと太めの中盤の選手、上手いでしょ?マリノスのトップチームにもう少しで入れそうだった人なんですよ」そう教えてくれたのは、隣で観戦していた紳士。話の流れで名刺をいただいたのですが、厚木マーカスの強化担当の方でした。




Jリーグ開幕20周年だそうですが(開幕戦、行ったんだよなあ)、自分の国にプロサッカーリーグがあるんだという感慨はひとしおなんだけど、その頂点ができたばかりに、現実を見誤ったかのようなサッカーママやパパが増えたことには、ちょっと疲れる思いも何度かしました。
スペシャルだかなんだか知りませんが、Jクラブのそういう特別な教室に受かったとか、落ちたとかが関心の中心で、肝心のプレーには特に興味なし。あったとしても、勝ったか負けたか。点をいれたかどうか…。プロサッカーリーグはできたかもしれないけど、もっと、サッカーが好きな人が増えないかなあ、と今も思い続けています。




そういう大人の責任なんだかどうか知りませんが、僕が知り合ったサッカー少年たちも、中学、高校と、サッカーを続ける子は決して多くはありません。とてつもない夢が、どうも叶いそうもないとなると、さっさとやめてしまうのかよ、なんて勘ぐりたくなってしまいます。

親だけでなく、僕たち町の指導者も責任を感じなくてはいけないのかもしれません。。
となり町のクラブに勝ったとか負けたとか、判定がおかしいとか、トレセンに何人入ったとか、なんで、あいつが落ちたんだとか。ちょっとうまいとチヤホヤ。さんざ甘やかしておいて、生意気になって手に負えなくなると「親が悪い」と放り出す。
もっと大切に、丁寧に子供達に接している指導者も間違いなくいます。でも、自分はどれだけできていたんだろう?…振り返るとつらくなります。



上へ上へと向かうにつれて、やめてくだけじゃなくって、どんどん削られてって、あれだけいたサッカー少年たちは、どこ行っちゃったんだろう?そんなことを素朴に思っていたんですが、
「ああ、こんなとこにいたんだ。」
と、大学生と戦う県内の社会人選手達を見て、ちょっと涙がでそうになったことを覚えています。

グラウンドの横を、なんちゃらスクールを終えた子供達とその親が特に興味も示さずに通り過ぎて行きました。




「あの審判服の人に聞いてみよう」
なにか、とてもちゃんとしたたたずまいの方がいたので、かみさんと、藁をもすがる気持ちで、おそるおそる声をかけてみました。

「大丈夫。ぜんぜん問題ないです。」

笑いながら親切にそう教えて下さった方は、実は僕たちがオープニングゲームで対戦する、瀬ヶ崎ラウレアートの代表の方だったのです。「自分たちが指導した子供達が大人になって、また一緒にサッカーしようってやってるんです。」監督さんと一緒にそう僕たちに話してくれました。
この代表の方、主審を務められた後に、キーパーとして一試合フル出場。信じられません。試合後には、汗びしょの笑顔で「50男をあんまりいじめちゃだめですよ」と、握手をして頂きました。おかしな表現かもしれませんが、すべてにおいて「オレより上だあ」と思いました。リスペクトしまくりです。本当にありがとうございました。




まあかくして、フリッパーズの航海は始まりました。
ホント、始まったばっか。そういう感じです.

強豪の強さ

コンビニで手にしたサッカーマガジンに「関東の主役を狙う男たち」と、大学リーグの注目選手を紹介するページがあったので、つい買ってしまいました。ところが、見開きページには専修の選手が一人もいない。筑波大の赤〓選手が筆頭はまあいいとして、なんで?と思っていたら、トビラの上に「専修大をストップするのは誰だ?」とありました。前の号で、専修の特集があったんですね。「ああ、今年はそういう位置なのか」と納得しました。開幕直前の話です。

もちろん身内が入部したから注目するわけですが、これまで、いわゆる強豪とか名門とかに縁がなかったもので、そういう位置にいるチームを応援する感覚に慣れていません。長男の時も次男の時も、公式戦の観戦はジャイアントキリング感を堪能していたようなところがありました。特に兄の航平は、劣勢の状況を跳ね返すパワーのようなものが体からみなぎっていました。対戦相手の観客席の空気を「大清水ってどこ?」みたいな感じから「うわあ、またあの11番だ」と恐怖心に変えてしまうのを、親ばか承知で楽しませてもらっていました。

関東大学リーグ1部開幕前後に、専修のレギュラークラスの練習試合も含めて三試合見たのですが、何が違うって、失点後の周りの空気ですかね?わりと簡単に失点するんです。先制もされる。私ら夫婦の慣れ親しんだメンタリティーだと「あー、ヤ、ヤバイ 」と心拍数が上がるところなのですが、ベンチや観客席の大勢の部員達は、なんかそうなってない。「またかよ」みたいな感じで、あんまり深刻じゃない(たぶん)。選手達も頭を掻くようにして、淡々とセンターサークルにボールを運びます。そして、淡々と得点を重ね、終わってみると大差で勝ってるという。
「強い」もう、今のところそれにつきます。

複数のJクラブが獲得を目指し、特別指定選手としてマリノスナビスコカップにも出場した、トップ下の長澤選手、右の高速ドリブラーの仲川選手に、ビシビシ縦パスが入り、そこでためを作っている間に二、三人が裏へ飛び出して行く。そこへスルーパスというのが、ひとつの形だと思います。裏を警戒して相手が少しでも下がると、長澤選手はペナの外からでも決めるシュート力があって、仲川選手は一人で斬り込んでいきます。
仲川選手は、一年生の時から注目されていたそうです。もの凄く速いのに、ボールを持つと、まずはゆっくり仕掛けることが多い。相手を引き付けて、高速でかわして行く。注目のドリブラーです。
さらに、やたら1対1が強い右サイドバックの北爪選手は、攻撃時には高い位置をキープ。クロスも上げれば、中に入って行ってシュートも打ちます。

仲川選手。 ここから、キュキュっとトップスピードに入ります。

北爪選手。裏をつかれた相手に多少差があっても追いつく。スピードも兼ね備えています。



そして私が最も目を奪われるのは、もう一人のトップ下、下田北斗選手。大清水高校(藤沢清流の前身)出身で長男の3つ後輩、次男の3つ先輩です。神大の大王選手や柿崎選手と共に、高校時代に関東大会に出場しています。注目はその運動量。すごいです。長澤選手らが持つと、裏へ飛び出し、奪われるとダッシュで戻って、自陣ゴール前でクリアしたりしていました。「え?さっき一番前にいなかった?」って感じ。それでなおかつ、止める蹴るが正確で判断が早い。素晴らしいです。

下田選手。 左足のキックが気持ちいい。スパン!と行きます。

狭いエリアでのパスの受け渡しの技術の高い選手が多く、2対3みたいな状況でも、寄せが甘いと逃げずにパスで突破をしかけたりもします。そうやって、ボールを動かされ、揺さぶられるので、徐々に相手の体力は奪われて行きます。先日観戦した慶応大学戦は、終盤にバタバタっと得点を重ねて行きました。

長澤選手。 開幕前に行われた全日本大学選抜の試合ではキャプテンをつとめていました。いろいろ持ってる上に、この男前。どうしましょう?



表向きには、強豪チームの華やかさが目立ちますが、チーム内でのポジション争いは熾烈です。同じポジションに数名がひしめき、凌ぎを削っているようです。それぞれが実力者。週末のゲームに向けて、毎日の練習が勝負。良ければ上に上がり、そうでなければ落とされる。厳しさとは、こういうことなんだろうと、思わされます。

アウェーで戦う

18年ぶりの大阪でした。
その年のはじめに、新しい仕事につき、直後に関西で大きな地震があり、程なくしてそちらで建て替えの需要が急増しました。「関西に行ってくれ。いつ戻れるかはわかんない」という、めちゃくちゃな(というか、万事こんな感じなんですけど)申し入れを、新入りの私は受け入れるしかありませんでした。長男が小学校に入学、次男が生まれて間もない頃でした。


結局半年とちょっと。大阪の寮で過ごしながら働きました。いろいろあって、忘れられない日々でした。私にとって、いろんな意味でそこは「 アウェー」で、何かときつかった。仕事場でキツくて、寮に戻ってまたキツくて…と。でも、不思議と、その状況に慣れてくる。そして少しづつ自信がついてくる。今にして思えば、自分にとって必要な時間だったと思います。

ただ、クソガキ盛りと、生まれたばっかを残されたかみさんにとっては、私以上に怒涛の毎日だったわけです。その苦労を思うと、今でも頭が上がりません(それがなくても上がりませんが)。

次男、岬がU-18の候補に選ばれ、大学との練習試合が組まれていたので、週末を利用してJグリーン堺まで、観戦に行ってきました。


思えば二人の息子は、小さい頃から、少しづつではありますが、慣れ親しんだ環境から、外へと進んで行っているような気がします。

でも、このフィールドで戦ってる選手達にとっては、それはごく普通のことなのではないでしょうか。親元を早くから離れて、サッカーに打ち込んでいる選手だっている。彼らの身近には、海外でプレーしている兄弟や先輩もいる。

何かを掴むために、何かを犠牲にして、高みを目指す。それが、もはやあたりまえになっている人たちなのかもしれません。



今回のことで、多くの方に応援のメッセージを息子は頂きましたが、候補になったことで、本人が手放しで喜んでいるような様子は、一度も見ることはありませんでした。大変な重圧の中で、努めて普通でいようとしていたように思います。


U-20ワールドカップへの出場を三大会連続で逃している日本にとって、アンダーカテゴリーとはいえ、このチームは選手に経験を積ませるだけのチームではないはずです。困難な使命を背負ったチームにとって、選手は、アジア予選を突破するための戦力として使えるかどうか、恐らくそういう基準で選ばれるのではないでしょうか。
普段やっているポジションと違うとか、国際試合の経験がないとか、そんなことは、なんの言い訳にもならないのだと思います。
求められることを、できるのか、できないのか?そういう基準を乗り越える選手が、結果的にJ1でレギュラーを取り(すでに候補の中には、そういう選手がいるのです)、オリンピック代表や、A代表という上の代表へ上がって行くことに繋がるのではないかと思います。



自分の何をどうすればいいのか?岬はこの合宿で突きつけられてきたことでしょう。
しかし、それはプレーそのものだけではなかったかもしれません。

オフでは普通にいいやつだったり、愉快な奴ら。全国的にも名の通った連中と、友達にはなれたかもしれない。でも、もしかしたら、彼らの中である種のアウェー感のようなものも味わったかもしれません。

兄もそうでした。旅から帰ってきた息子の顔つきを見ると、ふとそんなことを思います。


今回の合宿が、また新しい旅の始まりになるのでしょうか。

アマチュアサッカークラブを作ろう! 3

このチームには監督が今のところいません。

実は私が勝手にイメージしていた人がいて、その彼もこのチームに関心をよせていてくれた…というより選手としてユニフォームまで作ったんです。ところが、今春大学を卒業し、就職した会社の赴任地が、なんと熊本県になってしまったのです。彼の門出なので、それはおめでたい話なのですが、さすがに「週末に帰ってきてくれ」と言えるような距離ではありません。

なわけで、その監督やコーチの役割も、選手達が自分でやることになったわけです。


ここまで話がくる前から、クラブの道しるべ的なものとして、ひとつは「理念」もうひとつは「プレーモデル」というものを作っとかなきゃいけない、という話がありました。
「理念」は私とかみさんで作りました。堅苦しいのはちょっと合わないかなと思ったので、こんなのにしてみました。



  僕たちの流儀

ひとりひとりがカッコよくなろう。
途方もない目標なんかじゃなく、僕たちの力で出来ることを、確実にやっていこう。
負けてもいいなんて思わない、でも、勝つためなら手段を選ばないなんてことは絶対にしない。
子ども、オトナ、お母さん、お父さん、彼女、彼氏、友達、近所の人、隣町の人、そして自分……このクラブを応援してくれる人たちを増やそう。
だから、学校や職場、自分の居場所でしっかりやって、信頼される人になろう。子どもたちの目標になるオトナになろう。
このクラブを好きになってもらおう。僕たちのやり方を好きになってもらい、僕たちのやり方に感動してもらおう。僕たちが、僕たちのやり方を楽しもう。
誇りを持とう。
僕たちのやり方でクラブを育て、僕たちの流儀でゲームに勝つ。
楽しんで勝つ。




ちょっとキザかなと思ったのですが、そのくらいの方が丁度いいかなという感じで…まあ「理念」なんで。



それでもう一つの「プレーモデル」なんですが、これはそのクラブのサッカーのスタイルを示すものらしいんです。

ところで、今さらですが、ここ数年のサッカー界のトレンドは、ポゼッションであったり、パスサッカーといった、FCバルセロナの大成功から始まったスタイルであることは間違いありません。
日本でも、カテゴリーにかかわらず、あっちこっちでポゼッションサッカーばやりです。

ところが、これで成功を収めるチームはなかなかでてきません。特にプロの世界ではこれが顕著で、ポゼッションサッカーを標榜した監督が結果を出せずに、シーズン途中で更迭。別の監督が来て、また別のスタイルで…なんて話はヨーロッパでもJリーグでもしょっちゅう聞きます。プロチームは勝って結果をださなければならない。これは道理で、手間ひまかけても、なかなか結果に結びつかないポゼッションサッカーを貫くのは大変な事です。

でも、勝敗がクラブの存続にあまり影響しない、アマチュアクラブだったらどうでしょう?時間をかけて、てまひまかけて、存分にやってみたらいいのではないか、そう思うわけです。
で、三人組もポゼッションで行きたいと言う。すると「ところで、ポゼッションサッカーってなんだ?」と、話は次に行くわけです。



後ろからどう組み立てるんだ?ポゼッションしていてボールを失ったらどうするんだ?最後の崩しはどうするんだ?相手の方がポゼッションが上手かったらどうするんだ?

そういった、チームのやり方をある程度決めたもの、それがプレーモデルというわけです。

普通は監督やコーチが考えるものなのかもしれませんが、これを選手みんなで作ろうということになり、三人組を中心に準備を進め(熊本へ行く彼が良きアドバイザーになってくれました)、つい先日選手が集まってミーティングを開いたのです。

これが、さすが長い事サッカーをやっていた連中だけあって、とても充実した内容でした。

だいたいまず驚いたのが、初めて集まったのに、ミーティングの体裁ができていたということ。実に普通に。

前述したサッカーにおけるいくつかの状況を話す時も、司会に振られると、当然のように自分の意見を持っているのです。これこれこうしたいと。みんなほぼ即答です。感心しちゃいました。彼らの高校の先生はさぞ授業がやりやすかっただろうな、なんて思いました。

なるほどなと思ったのが、そこにいる選手達の部活のやり方を持ち寄る、というやり方です。例えば、自分たちより格上と対戦した場合にどうするか、というテーマ。司会の質問は
「〇〇たちの高校は、選手権予選でその年のインターハイチャンピオンに勝ったじゃない。あの時は、どういうやり方をとったわけ?」という具合。思わず、乗り出して聞いちゃいました。

少しずつなんだけど、確実に進んでいる。それを実感できるのは、こうして、ひとりひとりがいろんなことを、自分たちでやってるからだと思います。かかわるほどに、クラブへの愛着は増して行きます。