someday

そのとき、私は小田原の現場で二階のフローリングを貼っていました。
屋根の上の屋根屋さんの「おー」という声や、一階の壁に立てかけてある材料のことなどを気にかけながら、何よりその大きな揺れにびびりながら、とりあえず自宅のかみさんに連絡をとりました。大家さんには申し訳ないけど常日頃から「ここは、ぶっ倒れるからな。でかいのがきたらそのつもりで対処しろよ」と、言ってきたあばら屋。揺れが揺れだったので、一応覚悟はしました。
折しも親会社の若い現場監督が翌日の現場見学会のために訪れていたのですが、パニくっていて…。「こういう時って、…本性でるよなあ」と思いつつ、仕事を再開しました。すかさず小田原沿岸にも大津波警報が出ましたが、「あとはよろしくね」とばかりに現場監督は帰りました。



やることをやってケリをつけ、6時過ぎに小田原を出たのですが、上りの道路は完全にOUT。翌日、私は工期の迫っている仲間の現場の応援に行くことが決まっていたので今日中には帰っていたいし、若い相棒もできれば家に帰して布団の上で寝かしてやりたいので、ともかく進もうという判断でした。腹ごしらえのためにコンビニに寄っても、炭水化物系はなんもなし。ドーナッツみたいなのを買い、あっちに行ったりこっちに行ったりしながら、歩くスピードくらいで前進。
私の工務店の若い社員の自宅が二宮近辺だったので、彼が藤沢の会社からこっちに向かって待ち合わせ、若い相棒は彼の部屋で眠りにつくことになりました。社員は、お母さんが握ってくれたおにぎりとお茶の入ったポットを渡してくれました。「ありがとう。すげえ、うれしい。…こいつ、よろしく」「了解っす」「ありがとうございました」「おつかれっす!」二人とも、私の長男と同世代です。11時近くのコンビニ駐車場。眠くてへろへろでしたが、少し気分があがりました。
5時間以上かかって自宅にたどり着きました。



翌朝は工期の迫った仲間の現場へ。
「まあ、ともかく今日一日踏ん張ろう。明日は3週間ぶりの休みだ」と思っていた私のもとへ午後の一服中に工務店から電話。「携帯なんてもん誰が作ったんだよ」と思う瞬間…。
「親会社の天井がさ、あっちこっち壊れちゃってんだって、んでさ、日曜にお客さんがくるから、今晩中に直したいって言ってんだ。大工集めてるから、ウチもださなきゃいけないんだよね、みんなに断られてんだけど、カズ君なんとかなんない?」はああ? ぶつぶつ文句はたれましたが、馬鹿な私は、断りきれません。6時にその現場を出て、親会社の修復工事に向かいました。



工事終了11時。10人ほどの大工と、下請け工務店の社員数名。上手く言えませんが、おんなじよーな気分を抱いている連中との夜の仕事は、妙な連帯感があって悪くないものでした。
「カズ君ありがとう。飯食ってく?」電話をかけてきた主も、一緒です。「いや、いいよ。…むり。ねむい。帰る。」帰り道が空いていたのは、何よりの救いでした。






テレビに映し出される映像は、びっくりすることばかり。
ただ、あふれるような報道で危機感を必要以上に募らせてもしょうがないのかな、と思います。新しいネットワークを通じて、様々な情報も飛び込んでくるようですが、受け止める側も出す側も慎重になったほうがいいと思いました。 そう言う意味で、渋滞中に車で聞いていたローカルFMのDJの女の子がくれた情報は、私にとって必要にして充分。確実な安心感をくれるものでした。


あの激しい揺れの恐怖感や、家族のことを心配してドキドキした気持ちや、おにぎりの美味しさや、仕事にケリをつけた時の安心感…、今はまだそれが何なのかよくはわかりませんが、忘れないでいたいと思いました。会社に泊まった方、歩いて帰った方、みなそれぞれに日常とは違う経験をすることになり、この後もどうなるかはわかりませんが、1人1人がその時出来る最善を尽くし、出来ることから進んでいくだけだなあ、と思います。




10数年前の関西の震災後に、仕事で被災地に10ヶ月ほど行っていたのですが、いまだに忘れられないのは、河原にうず高く積み上げられたがれきの山と、「この界隈では4人亡くなられました」という、町のおじさんのことばです。
手伝いに行った現場の目の前に、小さな公園があって、ベンチに座ってひなたぼっこをするご老人や、砂場で遊ぶ子供を見ている父親の姿が見えました。ごく普通の風景が奇跡のように映りました。
被災に遭われた方々の、想像を絶する生活はこれからも続いていくでしょう。ふと「生きていてよかった」と思える日がいつか訪れることをひたすら祈ります。 (kazu)




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